源平の争乱
-
平清盛が後白河法皇をしりぞえ、1180年に孫の安徳天皇を位につけると、地方武士団や都の貴族・大寺院のなかには、平氏の専制に対する不満が渦巻き始めた。
この情勢をみた後白河法皇の皇子以仁王と畿内に基盤をもつ源氏の源頼政は、平氏打倒の兵をあげ、決起をよびかける王の命令を諸国の武士に伝えた。
このよびかけに応じて、伊豆に流されていた源頼朝や信濃の木曽谷にいた源義仲がをはじめ、各地の武士団がつぎつぎと立ち上がり、三井寺や興福寺などの大寺院の僧兵もコレに応じて、ついに内乱が全国的に広がり、5年にわたり争乱が続いた。
内乱の大きな力となったのは地方の武士団の動きである。
彼らは国司や荘園領主に対抗して所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、あらたな政治体制を求めていた。
平氏は都を福原京へと移したが、まもなく京に戻り、畿内を中心とする支配をかためてこれらの動きに対決しようとしたので、全国各地で戦いがつづいた。
しかし、おりからの畿内・西国を中心とする大飢饉や、清盛の死など悪条件もかさなって平氏は敗北し、安徳天皇を奉じて西国に都落ちした末、1185年、頼朝の命をうけた弟の源範頼・義経らの軍にせめられ、ついに長門の壇の浦で滅亡した。
鎌倉幕府
-
反平氏の諸勢力のうち、東国の武士団は武家の棟梁で源氏の嫡流である源頼朝のもとに結集し、もっとも有力な勢力に成長した。
頼朝は兵を挙げた後まもなく源氏ゆかりの地、相模の鎌倉を根拠地として広く主従関係の樹立につとめ、上京をいそがずにあたらしい政権の形成をめざし、関東の荘園・公領を支配し、御家人の所領支配を保障して言った。
1183年には、平氏の都落ちのあと、京都の後白河法皇と交渉して、東海・東山両道の東国の支配権の承認を得た。
ついで1185年、平氏の滅亡後、頼朝の強大化をおそれた法皇が義経に頼朝追討を命じると、頼朝は軍を京都におくって法皇にせまり、諸国に守護を、荘園や公領には地頭を任命する権利、また1段当り5升の兵糧米を徴収する権利、さらに諸国の国衙の実権をにぎる在庁官人を支配する権利を獲得した。
こうして東国を中心にした頼朝の支配権は、西国にもおよぶこととなり、武家政権としての鎌倉幕府が確立した。そののち、頼朝は、逃亡した義経をかくまったとして奥州藤原氏をほろぼし、1190年には上洛して右近衛大将となり、1192年、法皇の死後には、ついに念願の征夷大将軍に任ぜられた。
こうした鎌倉幕府が名実ともに成立してから、滅亡するまでのあいだを鎌倉時代とよんでいる。
幕府の支配機構は、簡素で実務的なものであった。鎌倉には中央機関として、御家人を組織し統制する侍所、一般政務や財政事務をつかさどる政所、裁判から招いた下級貴族を主とする側近たちが将軍頼朝を補佐した。
地方には守護と地頭がおかれた。守護は原則として各国に1人ずつ、主として東国出身の有力御家人が任命されて、大犯三カ条などの職務を任とし、国内の御家人を指揮して治安の維持と警察権の行使にあたり、戦時には国内の武士を統率した。
また在庁官人を支配し、とくに東国では国衙の行政事務をひきついで、地方行政官としての役割もはたした。
地頭は御家人のなかから任命され、任務は年貢の徴収・納入と土地の管理および治安維持であった。平氏政権のもとでも一部におかれていたが、給与には一定のきまりがなく、土地ごとの慣例にしたがっていたので、頼朝はその職務を明確化するとともに、任免権を国司や荘園領主から幕府の手にうばった。
こうしてそれまでの下司などの荘官の多くは、あらたに頼朝から任命をうけた地頭となり、広く御家人たちの権利が保障された。
当初は、地頭の設置範囲は平家没官領を中心とする謀反人の所領にかぎられていたが、幕府の勢力の拡大とともに広く全国におよぶようになった。